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2013.02.11(Mon) | EDIT

全国世論調査(面接方式)で、「この1か月間に1冊も本を読まなかった人は半数に達した。」とあり、
最近のメール的表現でいうなら「汗・・」を感じました。
でも同時調査で、こうした本離れ傾向を心配する人も3人に2人いたということで、少しはほっとしました。
また「子供に読み聞かせをする人も増えている。」との傾向は一時的な流行でないことに期待したいものです。
子供に対しての「読み聞かせ」子供の能力また人格形成に絶対に有効にはたらくのですから。

私の知っているあるお母さんは、娘さんが生まれたときその娘が小学校に入る前に、近くの図書館にある子供用の図書3000冊を読んであげようと
決心され、それを実践なさいました。その結果(一例を持ってすべてのように語るのはまずいのですが)娘さんは小学校3年生のときに作文で大きな賞をとり誇らしそうな写真と作文が雑誌に掲載されていたのを嬉しく拝見いたしました。そしてその後も優秀にまた順調に成長されています

「読書すること」の有用性について考えて見ます。人は一代で世の中の事象知ることは絶対に不可能です。太古の時代は口伝えにいろんな知識が伝達され、積み重ねられました。(間違いも多かったです)そしてパピルス、活版印刷の時代の流れの中、「本」という存在により、人類が数千年にわたって蓄積された知識を習得することができるようになったのです。そんな意味で「先人の貴重な体験を自分のものとして、人生に生かすことができる。」といったひとつの有用性が考えられます。

新しい情報伝達メディア。テレビやビデオを見ることも無意味とはいいません。子供の話に限っていえばお子さんにそれらを見せているご父母の心の中には「手抜きをしながらもそれが読書へのきっかけになってくれればいいな。」との期待感が存在することが察せられます。
テレビ・ビデオに限って言いますと特殊なものでない限りは、読書との大きな違いが存在します。想像力を発揮する・考えるマイペースな時間を子供たちに与えてやれないことです。読書ほどには自分のイマジネーションにより、頭の中に画像を描く事が出来る能力想像力が育ちづらいということです。
とはいえ、私自身「ドラえもん」は大好きですし自分の子供たちと一緒にテレビ・ビデオ・映画と見てまいりました。そしてそれが子供社会のあり方を教え、またキャラクターへの親近感から「ドラえもんの学習書」などにつながったことを考えるとプラスであったと考えます。
それにしても「ドラエモン」の海外での人気もすごいです。未来の科学力を持つドラエモン・弱虫だけど最後には勇気を振り絞るノビタ・昔はどこにでも
いたガキ大将のジャイアン・ちょっと意地悪なお金持ちのスネオ・かわいらしいシズカちゃん・勉強のできるデキスギ君と世界共通の子供環境だからなのかと考えてしまいます。
若干の脱線ですが、不登校や引きこもりの子供たちの現在と育ち方を研究していますと、受動的にしか生きられないといった傾向が見られ、家でビデオを見ている子供のほうが読書をする子供より数段多い傾向が見られます。
読書が想像力を育てるという因果関係の裏の状態、ビデオを見ていれば考えなくてすむといった逃避状態が見られるのです。

 「読書百遍義 自ずから見る」という諺がありますが、これは一冊の本でも何回も読み返し、又は、月日が経ってからもう一度読み返すと、分からなかった個所や見えなかったものが、「分かったり」「見えたり」してくるといった意味の諺です。
以前本誌に「中学生ごろの成長過程で重要なのは親で先生で、良書である」と書いたことがありますが、子供たちを研究する過程でますます強く感じています。
「読書は心のおしゃれです。」というjコピーを見たことがありますが、事実読書には心を育てる深い味わいと教養が存在します。一般に悪書といわれる本も存在しますが、それらを自己完成のできていない時期に読む弊害でしょう。でも良書を多く読みこなしてきた時期には悪書・良書を見極められるまた新しい賢明が育ったと考えられます。

以前本書で「長文読解の薦め」といった原稿を拝見し、感銘したのですが、国語学的な解釈は専門家にお任せし、科学者の見地から長文読解について考えて見ます。まずは長文の定義から。子供たちは1歳にもなると絵本に興味を示します。そして3・4歳になると言葉と文字の関係性がわかるようになり早い子はひらがなを自分で読めるようになります。(まだ音読しかできません・読み聞かせの重要な時期でもあります)。小学校入学前になると早い子は自分ひとりでも絵本を読めるようになります(成長による個人差の大きな時期なので、できなくてもあせる必要はありません)。そして小学生低学年ですが、早い子はもう絵のない本を読み始めます。(私の相談を受けたハーフの女の子の小学1年生は私が日本人のお母さんとお話をしている傍らで岩波新書を読んでいたのに驚きました。読解能力があることにもですが、1年生がそのような本に興味を持つことについてです)。そして中学受験、高校受験、大学受験と続くわけですが長文読解といわれるものとの付き合いが始まるのです。
この時期の特に受験における長文読解能力は、その受験校(特に理科系)に入って授業についていくために不可欠な読解力を問うというよりは、
ますます進むコンピュータ社会で、コンピュータは情報の記憶と演算処理能力については人よりはるかに優れているわけですから、それを使い、対応していくためには、たとえばデカルトが「われ考え、ゆえにわれあり」と指摘したような人間の存在価値をわかり、思考し判断する能力を持つことが必要であり、それら基礎力の判定基準になりやすいものであるからと考えます。とはいえ確認してみると作者の本意でないところに正解があったりもする受験の長文読解は不思議だと考えるのは、学生時代に長文読解に苦しんだ私の・・・でしょうか。

ここでは基本的な物の見方、考え方を学ぶうえで参考になると思われる書物のうちから、私の周りの多くの理科系の人たちが小青年時期に読んで大きな影響を受けたという著書を紹介します。 そのひとりは、寺田寅彦先生(昭和10年没)です。文豪、夏目漱石先生の門下として文学を愛し、さらに自然および社会を科学の目を通して独特なで著述をされた物理学者です。氏の著は有名で受験問題や教材としての引用例も多いことからの推薦書です。
もうひとりは、やっぱり中谷宇吉郎(昭和37年没)です。寺田の門下としてその影響を多分に受け、特に雪の研究では著名です。氏の著も受験問題や教材に多く引用されています。
中谷宇吉郎先生が有名にしたのにこんな話があります。終戦の頃までは、毎年立春になると卵の立った写真が新聞紙上に掲載されていたようですが、これは、卵は立春以外は立たないものと皆が信じていて、これを疑うものはいなかったからです。彼はこのような風習に対し、卵は立つための物理的条件が満たされるならば、いつでも立つことを実証して見せたのです。その翌年から、立春の日に卵の写真が紙上から消えたことは言うまでもありません。
小学校の高学年にもかなり難しいかもしれませんがぜひ一読をお勧めしたいものです。
あと小学校低学年に読んでほしい本はシートン動物記とファーブル昆虫記です。小さな科学者になった心がわくわくするはずです。
大人になると履歴書を書くことが何度かあると思うのですが、その「趣味」の欄に、書く人の割合ですが私の研究所の小さなデータによると、急激に減ってきています。以前ですと履歴書審査を行う人にとっては妥当な回答だったのですが。
趣味の選択肢が広がったこともこの一要因でしょうが、過去の「文学青年」といった言葉も使われなくなりそのイメージもなくなったからではないかと考えます。
読書は現実逃避の世界でもあり、自分を勇気づける手段でもあり、人を成長させる道具でもあります。
本を読みましょう。きっかけは勉強のためでもいいし、趣味であってもいいし、暇つぶしのため、または睡眠薬代わりでもいいのです。
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抽象性

2013.02.11(Mon) | EDIT

数学的思考の特徴のひとつに抽象性がります。 

たとえば、実は山もあり、谷もあるデコボコな地球を球面という見方をすることがあります。

これはデコボコをすてて地球の大局的な特徴をとらえることで、地球に関して単純明快に理解できるからです。このこの抽象化は分析には欠かせないことなのです。

抽象は概念に結びつき、それに対して、具象は抽象によって生まれた概念であろう。数学で言う表現です。

数学でいうこの抽象と具象(表現)は非常に音楽にも共通すると感じます。
芸術の中でも音楽にそれを強く感じるのです。

数学を好む人間に音楽愛好家が多いのもそんなところかもしれません。

音楽の美しさは音の美しさというより、音の構造の美しさにあると思います、心情的に溶け込んでくる。
数学にもそんな美観が大いに役立つのだと思います。

文章だってそうです。文節ではなく、文脈に意味があるんですから。

フィンランド式教育

2013.02.04(Mon) | EDIT



「結果が出ない」・「学力が低下した」と見直され始めている「ゆとりの学校教育」だが、実は「手抜き教育」だったのか??

でも人は「手を抜くために頭を使う」とも言えるのだから・・まあ良しとしよう。

肝心なのは「何のために学ぶのか?」についての明確なコンセンサスが国民に取れているか?だと思う。

学習の目的は「世の中の事象を広く知り、しっかりと考える力を持つことにより、自分と周りの人を幸せにする為にあるのだ」と私は考える。

話はとぶが、音楽の目的の一つに「歌唱力を上げる」があるが・文部省が何十年も考えた指導法より、カラオケのほうが機能している。何をか言わんやである。

@同じ教室で、同じ教材で、同じ先生に習っても、教育効果に個人差が出るのは、生徒が「面白い」、「知りたい」と感じているかにあります。
 その技術論は今度お話します。

平成19年に私が「フィンランド式学習」の本を出したときのこと。PISAやIEAデータだと明らかに日本の子供の学力は定価傾向にありました。
本には書けませんでしたが、フィンランド式探る途中に何人かのフィンランド人の専門家から逆に質問を受けました。「フィンランドは良い時の日本の学習システムを学んだのに、なんで日本はこうしちゃったの?」とのこと。・・「ううううううう。」

百聞は一見にしかずで、「こんなだよ」をアップしておきます。

Question1
背の高さの違うA~Fの6人の子供が先生の前に1列に並ぶ。
いろんな並び方を試したが、背の高い子が前に立つと、その子より低い子は先生には見えない。
背の高さの順番を答えなさい。

① 先生→ABCDEF・・・3人見えた。
② 先生→DECABF・・・1人見えた。
③ 先生→FBDCEA・・・3人見えた。
④ 先生→CABEFD・・・2人見えた。
⑤ 先生→EFBADC・・・4人見えた。

ご興味のある方・・メールいただけば・・まる付けします。

僕の嫌いな言葉・・「へ~~。算数数学ですか。私は数字が苦手で・・」
違うっちゅうの・・算数数学=計算じゃないよ。・・と。

オリエンテーション式指導法

2013.02.02(Sat) | EDIT

オリエンテーション式指導法
これは事前全体把握の意味合いからとりあえずはとこのように呼んでいるといったものです。昨年一年だけのデータなのですがかなり学習効果の高かった指導法の一つなのでここで初めて紹介いたします。
これは学習の最初にこれから学んでいくのは大体こんなことだと「おぼろげな設計図」を子ども達に見せてから、指導を始めることである。このように学習を始める事により効率が何倍も高まります。
またそれを学ぶことが今後の人生にどのようなプラスをもたらすのかを話してやり自分自身の身の回りの事と関連付けてやることも興味のエネルギー誘発に結びつき、結果的に学習効率を高めることとなるのです。
この「おぼろげな設計図」を子ども達に見せてやることは、1年分の大河ドラマを数時間のダイジェスト版に編集するのにも似て、指導者にとっては確かに難問であり、指導者の経験力量が問われる所となってきます。
昔から国家間では領土、また個人間でも土地の所有についての問題が多くおきてきました。そんな現実的な問題の解決法として、合理的な幾何学を用いた等積変換が考えられたわけですが、小学校ではおなじみの三角形の面積は違った形の三角形であっても底辺と高さが同じであれば(底辺×高さ÷2)面積は同じであると学習します。
そして高校生で学ぶ積分の導入ではナイル川の氾濫の話を使うことはよく耳にします。でも極端には小学生に対して数式は当然に使用しないで、このような話を今後の学習の「おぼろげな全体像」を見せてやることは可能であろうと考えるのです。
逆に高校生になったときの子ども達を考えますと、小学校・中学校の時期にこのあたりの概念が構成されていない場合に落ちこぼれているケースが多く見られます。
これは「わかること」と「できること」を混同した教育の弱点ではないかと考えます。
非常に難しい部分なのですがペーパーテストで「できること」を確認して「分かっているからできたのであろう」という解釈には多々誤認も存在するからです。
(本当のわかること)概念なくして小手先のテクニックで解けちゃう問題も結構ありますからね。
話を戻し、中学受験レベルの問題に対峙している子ども達に「おぼろげな全体像」を見せてやり、効果を上げるという手法は十分に可能でした。
これは初めての所に旅行に行くにあたって、事前に予備知識を携えていくことでより合理的に旅行が楽しめる。またそこの概略図でもあれば理想的なルート設定も可能となるということです。その旅先で有名な史跡を見た時もそうである。「なんだろうこの古ぼけた・・・」と曖昧に覗くのではなく、「へー。これが何々時代の誰それの・・」と興味深く印象付けられ人生に深みを増す。また正確な記憶喚起の為のキーワードを得たことにもなるのです。
このインパクトの強い状態とは交感神経が活性した状態であり記憶を明確にする。若干浮いた話となってしまいますが、初恋の彼女(彼氏)を記憶していて2人目3人目となるとそれほどでもない事にも似ています。
意識を集中させ「よしがんばるぞ」と構えている子ども達に短時間にこれから大体こんなことを学習していくのだとの全体像を見せてやることで学習効果を上げるのは、ちらっとだけ出来上がり図を見せてからジグソーパズルに取り組ませることにも似ています。

選択肢の多さ

2013.02.02(Sat) | EDIT

「明日もきっといいことがある」という希望を抱いて眠りにつく小学生は三割程度だという報告が、近年あったが、
もちろん数字を鵜呑みにして、単純に何かを結論付けできるものではないであろ。

でも大人の想像を超えた最近の子供の行動を解釈する上でのヒントになるだろう。
データに基づくものではなく、私の感覚によることを話すことは、はなはだ恐縮ではあるが、物の貧しかった40年前以前の日本では、少なくとも子供たちは「明日もきっといいことがある」と希望を抱いて眠りについていたような気がする。

この違いがあるとすればその原因の一つは選択肢の多さにあるのではないかと感ずる。「自分のやりたいこと。」「自分の欲しいものが。」絞り込む辛くなっているのではないだろうか。
子供に夢を与えることの出来ない世の中にしてはいけない、また子供に夢を与えることの出来ない大人であってはいけない。

算数オリンピックより

2013.02.02(Sat) | EDIT

算数オリンピックの過去の予選問題の変形を1問。
次の会話から答えを見つけてください。
お皿の上にクッキーが21枚あります。
A・B・C・D・Eの5人がじゃんけんで勝った順番に好きなだけクッキーを食べます。
A:お皿のクッキーの2/3食べたよ。
B:お皿のクッキーの半分を食べたよ。
C:お皿のクッキーの半分を食べたよ。
D:お皿のクッキーを全部食べたよ。
E:皆が違う枚数を食べたんだ
*「お皿の」というのはもちろんその段階でという意味です。
Eは何番目に何枚食べたかな?

考えかた
まず、Dが一番最後ということはわかります。
「半分食べた」という言葉からは、2の倍数分残っていたということがわかります。
この状態がBとCで2回。「2/3食べた」という言葉からは3の倍数分残っていたということが分かります。
即ちA・B・Cの食べる以前には2×2×3=12の倍数の枚数が残っていなければいけないということです。最初にあったのが21枚ですから、12の倍数を作るにはEに9枚食べてもらうしかないです。これでEが1番目に9枚食べたとしてもいいのでしょうが、他の人のことも考えて見ましょう。
もし(仮定)Aが2番目に食べたとすると、12×2/3=8 で残りは4枚。
次(3番目)にBかCが半分食べて、残りは2枚。
BかCのどちらかが4番目に半分の1枚を食べると、Dの分は1枚。
でもこれは「E:皆が違う枚数を食べたんだ」の条件にあわなくなります。
すなわち、Aが2番目に食べたという仮定が間違っていたことになります。
ということは2番目に食べたのは、BかCです。
ではAが3番目ではどうでしょうか?やっぱりだめですね。
1番目Eで9枚・・・・・残り12枚
2番目BかCで6枚・・・・・・残り6枚
3番目BかCで3枚・・・・・・・残り3枚
4枚目Aで2枚・・・・・・・残り1枚
5番目Dで1枚・・・・・・・残り0枚
という風に情報を整理していけばかなりのことまで分かるんですね。
今回もパズル的な問題を紹介しました。前号の復唱になりますが「なんだ。やってみると楽しいや」と算数・数学好きな子供たちが増えることを願ってのものです。

算数オリンピック問題

2013.02.02(Sat) | EDIT

算数オリンピックの過去の問題からの出題です。
AさんとBさんがお互いのテストの合計点数を推理しあいます。
条件C1:「Aさんの点数もBさんも0点ではなく、整数の得点です。」
条件C2:「AさんとBさんの得点差は100点です。」

発言1:少し考えたAさん。「Bさんの得点がわからない。」
発言2:それを聞いたBさん。「私にもAさんの得点がわからない。」
発言3:するとAさん「わかった!でも二人の得点があと1点でも多かったらわからなかった。」
A,Bの得点は何点ですか?

一見意味不明なこの問題は仮定法を使うことと規則性の発見が重要です。
発言1からわかること。もしAさんが100点を取っていたらBさんは200点だとわかりますね。BさんはC1より1点以上ですからAさんより得点が低く100点の差がつかないからです。
これでAさんは101点以上とわかります。「私は101点以上」といっているのと同様です。
発言2からわかることと。Aさんが101点以上とわかっているBさん。もし190点だとすると、Aさんが100点下にはなりようがないので、上の290点とわかります。Bさんが200点までであればそう推理できます。
  でも、そうできないのはBさんが201点以上ということです。
  「私は201点以上といっているのと同様です。
そのように考えていくと発言3で「わかった」といっているのは「私は300点以下」といっているのと同様です。「あと得点が1点でも多かったらわからなかった」というのはAさんの得点が300点だということです。

ではAさんが280点だったらどうでしょう。「あ!Bさんは380点だ」とわかるけど、「1点でも多かったらわからなかった」の条件は満たしませんね。
A300点 B400点が答えです。

この問題でお話した仮定法は、消去法にもつながり算数・数学では大きなパワーとなります。また同時に仮定法は「上手なたとえ話」として子供への説明法としての効果も持ちます。
(方程式とツルカメ算の話をしましたが、ツルカメ算もまさに仮定法ですよね。
「もし全部がツルだとしたら」の仮定に始まり、「足の数が合わないぞ」との話になり、仮定の違いを正して答えにたどり着くわけですから。)
それはたとえ話が概念的に非常に理解されやすいからです。「たとえば」とここでも言ってしまいそうになりますが、たとえ話は価値観の同じ同士であれば非常に分かりやすく、また異なる同士であれば誤解につながることもある即効性を持った説明手段なのです。ある先生の言葉「たとえば、おじいさんが・・」といったとき、先生の頭の中には一般的なおじいさん像が浮かんでいるわけですが、それは受け取り側の子どものおじいさんの年齢・職業・同居か別居か等様々です。
大人の世界でも、「だは、例えばあなたが当事者であったら・・。」などと使用されていますが、ことさら子どもの世界ではたとえ話は非常に理解につながり安いのです。
またこのたとえ話は、説明のみならず学習問題を解いていくのにも大変役に立ちます。
「置き換え」の手法なのですが、これは複雑な問題を単純化して考えることにもつながります。
考える過程で、また説明の段階でも役に立つのです。(当然ですよね。出題に対して回答をするという作業は、論理を伴う問題に関しては回答者が採点者に説明を行うことなわけですから。)

パズルとクイズ

2013.02.02(Sat) | EDIT

最近書店行きますと「大人のための算数」といった類の本が目に付きます。今世の中はクイズやパズルの絶頂時代のようで、テレビ番組にもその種のものを多く目にします。クイズとパズルの間には明確な分別は存在しないようですが、いわゆるクイズ的といわれる問題と、パズル的と言われる問題に区別はできるようです。クイズは知識のある人が強いのが当然で、(若干私偏見的ですが)人の知らないような知識に対しては「へー」と賛辞が送られています。(とはいえ4択の問題など知っていたではなく、複雑な類推により答えを発見されるケースもあり、私自身「へー」となっています。)
ただパズルは知識がなくても独創的な発想ができることで、簡単に解けてしまうこともあるので私自身大好きなのです。
またパズルに親しんで行くことで独創的な発想に磨きがかかるのも事実ですし、ことパズルに関しては子供と大人に差がないどころか、子供だから解ける問題も多いのです。
大人の方がそんなパズルで遊ばれることはすばらしいことだと思います。「子供のころには持っていた。そして常識を意識するあまりに退化した数理的論理力をよみがえらせた。」あるいは「あ!昔やった」なんて問題の発見に童心で取り組んで青春を懐かしみながら、新たに「青春のエネルギー」復活させた。といった世の中の流れを楽しく見つめております。
日常生活に役立つ何かが生まれてくるかもしれませんね。
そういう私も今月は意識して30冊以上の算数やパズルの本にチャレンジしてみました。

中学生からの質問

2013.02.02(Sat) | EDIT

先日、中学生諸君から質問を受けました。「数学を学び始めて出会う方程式の方が小学校で学ぶ鶴亀算(連立2元方程式と比較されます)なんかより優れているのではないか」と。

確かに比較すると私自身方程式で解いてしまった方が簡単で便利な気もします。そこである問題を彼らに出題しました。たとえば方程式は2元連立方程式であれば、二つの立式が必要ですが、その問題は4つの答えを求めるもので、4つの立式が不可能なものでした。

数の性質によって答えを求める出題だったのです。中学受験生時期であればスラスラと解いてしまったであろう彼らですが、便利な方程式を使うといった常識の罠にはまってしまって、なかなか答えが出せなかったのです。成長イコール退化でもあるとおっしゃる方もいらっしゃいますが、小学生の時期に数学ではなく算数としてあえて鶴亀算や何々算の類を学ぶのは思考力を伸ばすという大きな目的があるからなのだと感じたしだいです。


蛇足ですが、今の中国には算数という言葉はないようです。小学生が学ぶのは初等数学といわれるものです。教材を比較しましても私には優劣つけがたい異なりを感ずるものです。

2013.02.02(Sat) | EDIT

情報のイメージ化、視覚化そして発展する学習
私自身、早期学習を推奨するものではありませんが、やりたいとき、知りたいときにどんどん進めさせることは有効と考えます。ここでは低学年(1年生~3年生)のレッスンをモデルにお話をします。
設問:
「ミカンを持っているAさんとBさんの話をします。」
「AさんがBさんに2個あげると2人とも同じ数になります。」
「こんどはBさんがAさんに2個あげるとAさんはBさんの2倍の数になります。」
「では問題です。AさんBさんあわせて何個持っていますか?」

問題は板書やプリントで渡してもいいのですが、最初は頭の中のイメージだけで大体いくらになるかを考えさせます。
「もし全部で12個だったら・・」と仮定をすると・・。
「もし・・」といった仮定法を使った当てはめも頭を鍛えますし有効です。また簡単そうな問題を与えて自分の持っているイメージと、最終的に導き出される答えとのギョップを知ることもインパクト強く学習効果を高めます。
ここで頭の中だけで答えを導き出せればたいしたものです。

次に「じゃあお話を整理するために図に書いてみようか。」情報の視覚化ここでは線分図をつかいます。線分図を自分で編み出すのは大変ですから便利な道具(知恵)として教えます。正確に作図が出来ると一目瞭然ですからね。


同じになるという言葉をキーワードにして作図をして見ますと。イウが8だということがわかります。同じ長さのアイももちろん8です。あとは素の線分はと考えるとAが14でBが10となり正解は24です。
「最初にイメージした答えと同じだったかな?」

ここからが発展です。
「実はこれは過去の中学入試問題として出題された問題です。だからここまで理解できた君たちすごいね。」
「では2個あげて、2個もらうのではなくて、3個あげて、3個もらうとき。あと1個あげて、1個もらうときも考えてみよう。線分図を使っていいよ。」 と進行します。
すると「3個のときはAが21個、Bが15個。1個の時はAが7個、Bが5個。あれ?2個のときは
Aが14でBが5個だった。」
「先生。何か分かってきた。今度は10個のときの問題やってみていい?」
と規則性の発見に至るのです。またそれは同時に概念形成となっているようです。ちょっと早めに掛け算を知っている子なら、ほとんどが定量をもらうと同じになって、定量をあげると半分になる関係(関数的)の基礎数が7と5と気づくのです。
この子供たちが自分で発見したという成就感は大きなエネルギーにつながります。
このモデルレッスンのようにすべてうまくいくということはないでしょうが、与えられた問題を解くだけではなく、その問題を遊べる余裕、楽しむ気持ちを引き出してやれば子供たちは限りなく伸びるでしょう。

外国語

2013.02.02(Sat) | EDIT

アテネ・韓国・米国と周ってきたのですが、いまさらながら日本人の英会話力のなさをしみじみと感じました。経済力では日本に劣り(関係ないですね)英語を母国語としない国の方々もアクセント云々は別として実に堂々と英語を話す。この左はひとえに受験偏重した日本の英語教育にあるのではと感じました。教育とは本来様々な教科の形で世の中のことを学び人生を豊かにすることを最終目的とするもののはずが、手段や過程のはずの受験をあたかも最終目的のように勘違いしていることがこのような現実を招いているのではないかと。欲張った理想論に聞こえるかもしれませんが学習能力は人間の動物としての本能なのですから、そのエネルギーでもっと余裕を持って学習に臨めば結果的には受験でもよりよい結果を導けるのではないかと考えるものです。
All work and no play makes Jack a dull boy.
「仕事ばかりで遊ばなかったらジャックを冴えない子にしてしまう。」と訳せる英語のことわざですが、結局は「よく学び。よく遊べ。 」が良い結果を導くということにすね。気を使うべきところは結局は遊びの質です。
諺ついでにいつもの蛇足で英語の諺の問題を。(世の中を知って意訳を出来なければ、直訳できても無意味ですよね。)
①A man of words and not of deeds is like a garden full of weeds.
②A mill cannot grind with the water that is past.
③A short-cut is often a wrong cut.
④A stitch in time saves nine.

正解:山根的約(もっといい翻訳はいっぱいあるでしょうが、雰囲気で・・)
① 「ことばだけで行為の伴わぬ者は、雑草だらけの庭みたいなものだ。」
「有言実行」とでもしておきますか。昔は「不言実行」が日本の美徳とされてきましたが国際社会に通ずるのはコミュニケーション能力の伴った「有言実行」の人ですね。
② 「通り過ぎた水では水車も粉はひけない。 過ぎ去った時間は使えない。」
「覆水盆に帰らず」でしょうか。新聞に載っていた3代先に残したい言葉の1位は「いただきます。」だったようですが、2位は「覆水盆に帰らず」だったようです。
これは後先考えずに行動してしまう若者に伝えたい言葉として大人が支持したようです。「いただきます」も謙譲の素敵な人間関係を構築することばです。英語では適当な言葉が見当たりません。どうでしょうか?
③「近道はしばしば間違った道である」
「 急がば回れ」ですね。これは世界各国でもたれている認識のようですね。ネガティブに解釈すると、人間には失敗は付き物。そのときの励ましの言葉として準備されているのかもしれません。
④「その時の一針は、あとの9針の節約。適当な時に一針縫えば、ほころびなかったのに。」
 といった意味ですが何と約しましょう?子育てにも言えそうですね。

公立学校の先生のご苦労

2013.02.02(Sat) | EDIT

一般公立小学校の先生方のご苦労も分かります。

全員をあるレベルに引き上げて中学校へ引き渡さなくてはならないわけですから。そんな意味では学校と塾で2元的に学ぶ子供たちがいることもしかたないと考えます。

また小学校から中学校へのバトンタッチとなる中学1年生の教科書にもまだまだ工夫が必要だとも考え自治体で作る新しい教科書事業にも参加をしています

算数のおまじない・「のかけ」「がわり」って?

2013.02.02(Sat) | EDIT

ある算数の先生の著書を「うん。確かに。確かに。」と読み進んでいるうちに、最後のほうの章のタイトルに「算数は暗記です」とい言葉を発見して驚いた。「な・な・なんでそんなことを?」かなりのベテランの先生で、他にも著書がある。要約すると(へたに要約すると文意が伝わらなくなる事もあり不本意ですが、紙面の関係でお許しを。)「少ない原理原則だけを覚えて、あとは徹底的にそれを使いまくることが算数力を高める。」ということのようだ。
「1元的に一般公立小学校の算数のテストで合格点を取らせるためには」ということだけを目的とするならそれも正論かもしれないが、それ以上を目指す本誌読者諸氏には間違いのアドバイスであろう。
様々なレベルの子供たちを指導する一般公立小学校の先生方の苦労も分かる。5年生の算数で「割合」を指導し全員を合格点レベルに引き上げるのは困難な山の一つだ。だから「のかけ」「がわり」というまじないのような言葉が使われる。
割合の問題で「・・・の」とくれば掛け算を使う。「・・・が」とくれば割り算を使うということを意味するのだが、そしてこの指導により学校のテストの点数は取れるようになるだろう。
ただ今後の伸びには期待の出来るものではないのです。私は常々小学生の算数で一番必要なのは比例や割合といった関数につながる概念の習得だといい続けてきました。またそういった概念習得の出来た子供たちがグングン伸びるのを目の前で見てきたから自信を持って言い切れるのです。

広中平祐先生のお話

2013.02.02(Sat) | EDIT

算数オリンピック会長広中先生(数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞受賞)のうけうり。

前号で人間の脳の特性としての忘却能力。そしてそれがコンピュータにはない寛容な特殊な能力であるとお話した。寛容性(幅広い視野)についての話を続けると、コンピュータには人と同様の映画鑑賞は出来ない。
一つ一つのコマがばらばらな画面に見えてしまうだろう。
でも人間は違う。前のコマのイメージを持続して次のコマにつなげられるのだ。これは人間の脳があるときは鈍感に働き、あるときは敏捷に働いて、そして刺激に対する反応の余韻を残す能力を持っているからである。人間の不連続なものから連続したイメージを読み取る特殊な能力と言えるだろう。
この寛容性は連想ということでも力を発揮する。同じ内容を伝える文章を書いても、見直し書き直してみることで深みを持つものが出来上がる。

この連想の習慣は数学にも関連する。
いくつかの異なるものの中に共通点を読み取る働きが一つだ。たとえば円と三角形の共通点は、平面を内側と外側の二つに分割するという性質だ。たとえばカタカナの「コ」のような図形にはその性質はなく、また数字の「8」のような図形は平面を3分割する。

このような発想は実生活にも役立ち、有用である。
幅を持った考え方は発展性を持って深まっていくということである。

自分の好きな子嫌いな子

2013.02.02(Sat) | EDIT

都会の小学生は放課後に2時間以上勉強する子供が21%いるというデータがありますがコレは小学校の1年生も含めてのことですから、受験をする5年・6年に限定するとたぶん3時間以上となってくるはずです。学校のある日は仮に8時に家を出て4時に家に帰るとすると、それで8時間。睡眠時間と入浴時間をあわせるとまた8時間で、残りが8時間です。この8時間で食事や遊びや勉強をしなくてはいけないわけですから小学生もかなり多忙です。私の調査ですと納得のいく受験勉強が出来たという子供たちは塾のある日には家庭で1時間、塾のない日は家庭で3時間は勉強をしてきました。これはちょうど適当な時間であるとわたしは考えます。脳のメカニズムから考えてもこれ以上の学習時間を取っても集中ができずプラスには働かないからです。
日曜日に頭を休めることも大切です。豊臣秀吉の「長い槍と短い槍」の逸話ではございませんが休む時間を持つことで、いざというときに集中できるのですから。
ちなみに田舎の子供で2時間以上学習する小学生は6・6%とのこと。
この大きな差は将来どんな違いを生むのでしょうか。

困った先生について

2013.02.02(Sat) | EDIT

「指導力不足教員」と認定された公立の小中高校の先生が、今後まだまだ増えるだろうと予測されているのですから由々しき事態です。このような先生は「研修措置教員」と認定されて個別研修を受けてまた職場復帰となるわけですが、私学ではありえない話です。

このような「困った先生」のことを「優勝旗」と呼ぶらしいのですが、意味は問題の表面化を避けるために各校持ちまわしで引きうけるからとのことです。

 教育委員会や学校が懸命に隠してきた「困った先生が」が、最近になって表面化するようになったのはなぜなのでしょうか。 教育の中立性を守るというたてまえのもと、教員の身分は手厚く保護されてきたのですが 文科省が、都道府県と政令市の教委に指導力不足教員を認定して研修させ、場合によっては分限処分(免職や休職など)をする人事管理制度の導入を指示したのがきっかけなのです。

2001年度には「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」を一部改正し、「指導力不足教員」の免職が可能となりました。確かに一人の先生を評価するにあたっては慎重な配慮が必要ですが、「研修措置教員」という呼称についても甘いとすら感じます。本来教える人間は自己研鑽をし自分自身も学ぶことを怠ってはいけないというのはあたりまえのことで。そのあたりまえのことが出来なかったとされる先生たちなのですから。研修をして「困った先生」がよみがえるのかも大きな疑問です。

知識や問題を解く能力の評価は客観的にもおこなえますが、指導能力、クラスの掌握能力など客観性のともなうものについての評価は難しいです。

夏目漱石の「ぼっちゃん」を思い出しました。登場する「赤シャツ」「うらなり」管理職にこびへつらって評価を上げようとする先生がふえても困るわけですし難問です。
数字だけで考えると公立小中高校の先生は全国に九十三万人いらっしゃいます。「こまった先生」の出現率は約2000分の1ということですから「まあしかたがない」と考えるしかないのでしょうか?
とはいっても現実に成長過程の大切な時期に自分の子がこのような先生にあたったらたまったもんではありません。公立学校にも優秀な先生はいっぱいいらっしゃるのですが一部の「困った先生」の存在が私学への流れをますます強めていくのでしょう。

・・いろんな意味での困った先生がマスコミに登場し・・どうなることやら。

夏休み

2013.02.02(Sat) | EDIT

夏休みの自由研究について。中学受験においても子供たちがどのような小学生生活をしてきたか、自由研究は何をしたのかなど参考にされる学校も多く、これはポイントを稼ぐいいチャンスなのかもしれません。私自身、自由研究に子供たちに強く奨励をし、今年の夏も22人(小学校1年生~4年生)のジュニア研究員を引きつれて5日間の鳥取合宿です。今回のテーマは「砂丘と海」なのですが事前研究に騒ぐ子供たちに「遊び心は大切だが、ふざけるのは違うぞ・・合宿というよりは集団疎開を体験するんだから・・」などと話しております。
科学アプローチ的にオーソドックスな自由研究の流れを紹介します。
1. 何でこのテーマを選んだのか
2. 何を実験・研究してみたか
3. 実験・研究の結果がどうであったか
4. 実験・研究の結果らわかったことは
5. 研究にあたっての工夫やアドバイスを受けた人について
6. 実験・研究の整理
1~6のこの流れが自由研究の一般的な流れなのですが、大人のやるような高度な研究をすることよりも、1の「なぜこのような研究をしてみようと考えたのか」で子供らしい疑問や着眼が審査の大きなポイントになります。
以前にもおはなしをしましたが、アメリカの子供の研究「糸電話はどのくらいの距離とどくか」などは子供らしいのですが、非常に奥深く評価を受けました。

樹形図で考える

2013.02.02(Sat) | EDIT

数理科学的な思考方法として情報の視覚化が非常に有効な手法であることは常々言って来ました。本問題のようなケースも情報の視覚化になれると、その単純化と法則性を探っていくことで、上のような樹形図にたどり着けるということです。
正解は「4分」ということになります。情報の視覚化(本テーマでは様々な樹形図)になれてくると小学校の1年生でも正解にたどり着けます。
この問題を「では同様にして24分間で最大何人に伝達を出来るだろうか?」と発展させてみても面白いですね。お子さんにどんどん足し算をさせていきます。1分目には1人の人が1本の電話しかかけられないので(1人)、次は情報を持つ人の数が2人になったので2本の電話がかけられる。2分目(1+1=2人)、3分目(2+2=4人)、4分目(4+4=8人)であることから16、32、64、128、256、512、1024、2048、4096、8192、16384、32768、65536、131072、262144、20分目524288、21分目1048576、22分目2097152、23分目4194304、24分目8388608、となって行きますが、ここで規則性をもった数の並び(数列)を発見してくれるとすばらしいですね。
ここまでくると数学の等比数列と、その総和の領域なのではとなってきますが、足し算さえ出来れば皆で答えを導き出せます。27分後には1億3000万をこえるので日本の人 皆に連絡できる数になりますが、こんな意外性がますます子供たちに考えることの楽しさを育てていくのでしょうね。
いろいろな問題を解いていく過程で、正解が出た、とりあえず解説を聞いて(読んで)わかったで終らせずに、もしこの問題が、このように変化したらどうだろうというところまで踏みこんでいくと、能力も高まり、また良い意味で「算数・数学をもてあそべる力」がついていくでしょう。

忘れるって?

2013.02.02(Sat) | EDIT

人間の脳の特性として忘却能力ある、コレはコンピュータにはない特殊な能力であるとされている。ただこれは正確な言い方ではない。人間の脳は無限に近く記憶をしていくことが出来るが、コンピュータが記憶したものを100%取りだせることが出来るのに対し、人の脳はほんのわずかしかとりだせないというのが正確だろう。即ち「忘れる」のではなく、「脳に蓄積しとりだせなくする」能力を持っているということだ。「いつでもすぐ取りだせる情報」に対し、「すぐにはとりだせない形で脳に蓄積されている情報」、この前者に対する後者の大きさの比率をゆとりと考える。そしてこの「ゆとり」が知恵を作る要素のひとつであると考える。ただこのすぐにはとりだせない形で脳に蓄積されている情報」は永遠に取りだせないものではなく、ちょっとした手間ときっかけがあれば取りだすことも可能である。
これこそ人の「ゆとり」であり物事を幅を持って見つめられ、また考えることの出来る寛容な思考能力であると。
一見学んでも忘れてしまう、元も子もないではないかと解されることもある学習。でもこの継続こそが知恵のある、そして深みのある人間を創造していくのだ。

ぴったり感

2013.02.02(Sat) | EDIT

ぴったり感成就感からの意欲
人はピッタリ感覚が大好きです。子供の玩具で三角柱・四角柱・星型柱などの形のものを、色んな形の穴に落として遊ぶものがありますが、試行錯誤か偶然の結果かは別として、「ピタリ」とはまってコロンと落ちると子供たちは本当に嬉しそうな表情をします。大人のボウリングのストライクだってそうですよね。
学習についてのこのピッタリ感の応用は、ある程度は指導側の作為も必要です。また「すごい!正解!」といった大げさな周りからのリアクションは子供のピッタリ感を高めますね。
ボウリングのストライクも一人ぼっちじゃつまらないですよね。「わーーすごい」と皆におだてられたりすると「もう一度、ピッタリを。ストライクを。」といった気になるわけです。
そんな意味では、ピッタリ感効果はおだてによって高まるといえるでしょう。
「豚もおだてりゃ・・」と悪い意味につかわれていますが。「ピタッ。きまった!」と誉めてやることは大切です。もし仮に今日の学校の算数のテストが10点だったとしても、悲観的にならず、その子にピッタリあったレベルの問題を解かせ、そこからピッタリの快感を味あわせ、次に進めて行くことが大切です

学習効果と生活リズム

2013.02.02(Sat) | EDIT

学習と生活リズム
基本的な生活リズムを崩してしまっては勉強どころではありません。昔の人はよく言ったもので「健全に肉体に健全な精神が宿る」と。健全な精神に健全な肉体が宿るとも言えるでしょう。当然にして健全な肉体と健全な精神無くして勉強もできるはずはありません。
それなの基本になっているのが生活リズムと食事です。とここまでは一般的な話です。
記憶のメカニズムをわかりやすくするために、1次記憶が電気記憶(会話をするときのイメージ記憶、秒単位)2次記憶がホルモン記憶(大きな個人差があるが数時間から数十時間。一夜漬けの記憶はこれに近いです。)3次記憶がタンパク記憶(一生残るような記憶)と説明することがあります。よく老人のボケといわれる症状に会話はできる、昔の話が良く出始める、でも数時間前の食事の記憶がないなどは2次記憶のホルモンの足りないことが原因とも考えられます。
この1次から3次までの記憶については個人差の大きなところですが、自分の特性をつかめば、合理的な学習時間の発見もありえるわけです。
それらの知識を基本に、ここでは一般的にどのような学習時間帯が合理的であろうかを考えてみます。
まず「早寝、早起き」といった自然界の摂理に適応した生活リズムがベストということになります。
次に夜3時間の学習と夜2時間朝1時間の学習時間での効果についての比較を行います、この実験による効果は後者が断然優れています。これは集中的な3時間と集中力に無理があることも要因として考えられますが、それ以上に1次記憶と2次記憶の関係にあることも考えられます。真剣な表情のお父さんやお母さんと会話をしていて、急に「1分ほど前に私は何を言いましたっけ?」と質問してほとんど正確に記憶していらっしゃる方はありません。当然です人間はビデオテープではないので取捨選択を大切そうなイメージのみを記憶するのですから。でもその次に「これを覚えてくださいね。」といって10分後におたずねすると皆さんが覚えていらっしゃいます。これは1次記憶から2次記憶へ変換されたと仮設できる訳です。
夜2時間、朝1時間の効果はこんなところにありそうです。
そしてポイントとなるのは朝の1時間の学習なのですが、前夜1時間余計に寝たすっきり頭で、昨晩の学習を何も見ないで思い出すことにあります。まず自分が机に向かって本をあるいはノートを開いたところから思い出し始めます。次にペンを取って何を勉強したか、何ができなかったかを2時間の記憶を手繰るのに2時間はかかりませんが、最初はきつい感じがするかも知れません。でも1週間もしてなれてくると
2時間の学習が15分で思い出せるようになります。そして定着効果もあるわけです。
そして正確な記憶については1週間後に再認識するということで。本人の身についたものと考えられます。

サブノート

2013.02.02(Sat) | EDIT

カンニングペーパー的サブノート作成法
いまではあまり聞くことのなくなったカンニング。ここではけっしてカンニングペーパーを作って不正に使用をしなさいというものではありません。
オリジナルノートを創れるようにとのお話をしましたが、続いてサブノート作成のお話をします。
サブノートをまた自分で作る作業は、自分の頭の中の整理にもつながり、特に社会科等の記憶をすることの多い学習には効果を発揮します。またサブノートをさらに整理したサードノートが作成できれば、将来の受験会場にもそれ1冊をもっていけば言い訳ですから、精神的なゆとりを与えてくれる存在ともなります。
大脳生理学の世界では記憶をよみがえらせる働きをするのは海馬という脳の中の部位だといわれていますが、人間の脳の中を広い畑と例えてお話をします。
ポイントは重要事柄は誰にとっても共通だけど、その記憶をよみがえらせるキーワードは人によって異なるということです。
例えばジャガイモ、大根、にんじんとだれでも知っていますが、それなの葉っぱを分別できる人は少ないはずです。リンゴ、柿、梨であれば重要事項イコール記憶喚起キーワードとなっているから良いのですが、記憶は畑のようなもの、ジャガイモの葉をキーワードとして知っていれば、ずるずっと引き出してジャガイモにたどり着けるのですが、葉っぱを覚えていない人は畑を片っ端から掘り返してタイムアップということも考えられます。
私自身も日本史の教科書のその答えの書かれたページ、そして同じページにのっていたフランシスコザビエルの肖像画まで思い出せるのに、結局その隣にかかれている答えにたどり着けなかった等なんともなさけない経験が何度もあります。
教科書、ノートの内容は系列的に一度は頭に収める、そしてサブノートに自分なりにアウトプットする作業。そしてそれをさらに整理してカンニングペーパーのような物を作成する。この作業が終わったときにはもうカンニングペーパー使用の必要はありません。その内容は頭の中に整理され、もし試験前に忘れたとしても、すぐに記憶がよみがえるようになっているからです。

消しゴム

2013.02.02(Sat) | EDIT

消しゴムを使わないノート整理
性格や思考方法に起因するのでしょうか。人は同じところで何度もミスを犯す傾向が見られます。
綺麗なノートを作成する子ども達にも多く見られる傾向です。人は自分の失敗はなるべくあからさまにしたくはないものです。でも人に見せるためのものではない自分の為のノートなわけですから、やっぱりプラスにはたらノートを創っていきたいものです。
これは直接答えを記入する方式の問題集などにも言えることですが、間違っていた自分の解答を消しゴムで消してしまって、正しい答えを書くのは非常にもったいないです。例えば落とし穴のいっぱいある野原を歩いているとしましょう。目印さえつけておけば2度と同じ落とし穴には落ちなくするのです。でも目印をつけないと何度でも同じ穴に落ちてしまいます。
斜線でペケマークをつけておけばいいのです。
人生って以外に成功者の話を聞きたがるものですが、その真似をしてもなかなか成功ができるものではありませんが、失敗者の話を聞き同一のミスを排除することで失敗を少なくする(一歩づつ成功に近づく)わけです。
ノート類、教科書、問題集、辞書は使いきりと考えてどんどん自分の足跡を行けて汚していきましょう。
それが実は使いきりではなく、財産を蓄えることになるのですから。
ただ一ついえるのは、同じあたりに多くのペケマークがついてしまうと、苦手意識をもってしまい意識過剰でまた同じミスを犯すケースも見られますが、その対応としては集中的にそこを学び理解して苦手意識を無くすことしかないですね。

オリジナルノート

2013.02.02(Sat) | EDIT

オリジナルノートの有用性
ノートの取り方を指導する先生はいらっしゃいますが、その意味まで子供たちに教えている先生はまだ少ないようです。授業を受けてノートに綺麗に板書を写し取ることも一つの能力ではあるのですが、綺麗に整理することに意識が高まりすぎてしまってはもともこもありません。一般的にいわれる学習上の重要ポイントがきちんと整理されたものは本屋さんに教科書や参考書としていっぱい売られているわけですし、また先生も情報を個々の生徒に渡すだけのことであればコピーをして渡せば済むことなのです。
でもあえて個別にノートを取るのかというと①先生の話を聞く・板書を読むといったインプット作業を行う。②各々が自分なりの脳内処理活動を行う。③整理の補助、また整理状態の確認のためにノートを整理する。という一連の流れ作業に意味があるからなのです。
まずノートが創れること、そしてノートそのものに意味があるのです。
とくにオリジナルノートには記憶喚起の為のキーワード集としての意味があるのです。
話は飛躍しますが、研究者の方々のノートを拝見すると、他の人間が見てもぜんぜん読み取れないものが多いのです。でもご本人はそれを見ながら、すらすらとお話をなさいます。
私の持つ小さなデータに基づいての話をしえ恐縮なのですが、子供たちのノートを見て綺麗にノートを整理できる子供より、自分なりの工夫のある子供のほうが成績がよくなるというのは偏見でしょうか?
逆説的な話になってしまいますが、綺麗な整理に越したことはないけど、それは学んでいるという形骸(自分では勉強をしているつもりにはなる)になることが多く、オリジナルノートが取れるようになったときこそインプット、処理、アウトプットのできる自分のなりの学習方法が出来上がったとも言えるでしょう。
考え、理解して簡略的にノートを取る習慣をつける努力から始まると思います。

暗記について少しだけ

2013.02.02(Sat) | EDIT

暗記物について記憶のメカニズムといった観点から簡単なこつをお話をいたします。といいましても暗記力も知能の一つなわけですから、あくまで偏見的な分類であったことをご了承ください。最も効果的な記憶方法の一つは音読をするといった非常に当たり前のことなのですが、電話がかかってきた。重要な電話番号を告げられたがそこにメモ用紙がないといった状況をご想像ください。特別な録音機能、番号表示機能を使わないケースです。私のKIS科学研究所の実験データなのですが100パーセントの方がメモ用紙とペンを探そうとされます。そして同時に今聞いた電話番号を自分の耳に聞こえるように復唱なさっているのです。例えば本誌編集部であれば3253-5944で「サン、ニー、ゴー、サン、ゴー、キュウー、ヨン、ヨン」と自然に声に出しているのです。そして10回以上復唱した後にメモ用紙とペンが手に入ると、ほとんど100パーセント正確にすらすらとメモが取れます。ところが復唱の始まった直後に中断させ、復唱を再開させた場合や。「メモ用紙はどこですか」などと別のことを口にしたケースだと正確に書けることが3割を割ってしまいます。簡単にこの実験結果を解釈すると耳で番号を聞く、記憶するよう意識して音にして自分の耳で聞く、脳に再認識される、また音にする。この流れが記憶定着を深めるということがわかります。さらに比較すると目の前にメモ用紙があり直後に復唱することなくメモをとった場合30分後の記憶定着率は2割をきりましたが、復唱を行った人は7割近く30分後にもその記憶を持っているのです。何度か自分の口で音にする作業というのは勉強にも応用できる記憶定着方法であることは間違いありません。

それぞれに、いろんな学習法

2013.02.02(Sat) | EDIT

調べてみるとみんなの小学生から大学入学までの学習方法に大きな異なりがありました。「えっ。そんな勉強のやりかたしてたの?でもなるほど。」と互いに驚きながら納得する一幕もありました。これは誰にも適応する絶対的な学習方法が無いことを意味することでもあり、また「学問に王道なし」の言葉を裏付けたものです。そんななかで唯一つ明確に言えるのは皆が早い時期に目的を持って自分なりの学習方法を確立させていたということです。例えば3桁と3桁の掛け算をするときにも自分なりのミスをしないための工夫(例えば5上がってと暗記で計算していくところに、自分なりに計算式に自分だけにわかるメモを入れたりする)をこらしていたのです。また、興味深かったのは、いまだに相談の多い「ながら族的学習法」についてなのですが、大きく意見が分かれました。「算数・数学については音楽を聴きながらやったほうがスムーズだ。」「いや、気が散ってしまう。」といった風です。これにつきましては結論は出せませんが、嗜好の問題でもありリラックスして学習できればどちらでも良いというのが私の考えです。蛇足ですが15年程前、中国へ行ってタクシーに乗ったとき運転手さんに私がうかがった話ですが、「中国の道路交通法では運転中には音楽を聞いてはいけない。注意が散漫になるから。」というのです。それに付け加え「でも、お客さんが希望するなら音楽をかけることも出来ますよ。でもその時も運転手は音楽聴かないようにしなくちゃいけないんだよ。」と。変な法律だなと感じつつも、かかっている音楽を聴かなく意識するほうがますます注意散漫となるわけで「いえ、音楽は結構です。」と辞退したものです。

イマージョン教育

2013.02.02(Sat) | EDIT

イマージョン教育法
教育法のお話ついでに今後のますます進む国際化と平行して浸透していくであろうイマージョン教育法についてお話いたします。この教育法は言語と思考の研究から始まり(思考の基本を言語能力と考える。人の論理は語彙数の高まりと平行している。)、アメリカや一部の教育機関では実践されているものです。第一言語に第二言語を交えながら教育(算数教育や理科実験、体験学習などを日本であれば日本語と英語で授業を行う)を行うことによって思考力を高めるとともに、二つの言語能力も同時に高める教育法ということで効果が期待されています。
ポイントは子供に第一言語(日本だと日本語)の定着した後の教育法であることが肝要で、言語敏感期についての研究が必要だとのことです。(単にバイリンガルを育成することを目的としているのではなく、思考の多様化を第一の目的としているから。)
広中平祐先生が算数数学は国際言語であると申されましたが、たしかに人の考え方は宗教観などの一部を除きほぼ万国共通であり、異なるのはその表現、コミュニケーション方法にあるわけで(蛇足ですが同意の表現として頭を縦に振ってうなずく動作はほぼ万国共通だけど、一部地域に首を横に振ることが同意を表すところもあって、旅行者の方がトラブルを起こすこともあるとのこと)その表現方法を(現在の分類では対極にありそうな算数や言語を)同時に学ぶのも、けして欲張った物騒な教育ではなくごく自然なことだと考えます。
前号の復唱となってしまいますが国語と算数を表裏一体の教科として指導法を考える時期なのではないでしょうか?
そう考えると勉強って遊びになるんです。クイズとパズルです。漢字が書ける、読める、計算が出来ることは知識が必要なクイズです。そして文章読解や図形問題を解くことは論理力の必要なパズルなのです。
そんな遊び心が能力開花の動機付けになれば子供達もどんどん伸びていくでしょう。

大脳生理学的見地から

2013.02.02(Sat) | EDIT

ご質問の多かった大脳生理学的見地からの教育についてお話します。
一見科学的、先進的な大脳生理学の教育分野に置ける応用。果たして学力向上に効果を期待できるのだろうか。ロジャースベリーからはじまった分割脳科学は脳の各部位の働きを定義し、ギルフォードの知能考察は120の知能因子を定義しました。(直方体を横に4、縦に6、奥に5と分けてあって4×6×5=120の図形で表記され単位、「分類」「関係」とか「行動」とかを意味しているものをご覧になった方も多いでしょうが)確かになるほどとうなずけるものではありますが、その理論応用となると非常なる難問でしょう。お味噌汁の味を化学式であらわすのがかなり困難であること以上に生化学的に証明するには複雑すぎます。私の知る限りでは大脳領域だけの生理学で思考のメカニズムを説明するにはまだまだ無理があると言わざるを得ません。
かなり昔の話ですが、N医大病院の男性60歳症例をみると、事故により左脳の機能が停止し、言語中枢も破壊された。話し掛けにも応ぜず、その後患者の米軍キャンプでの職歴を知った米国帰りの医師が英語で話し掛けたところ、流暢な英語が返されたという話があるのですが。これは大脳生理学の定説ではまったく説明のつかないことだったのです。
そこで思考のメカニズムを間脳を含める脳全域広げることでさらに様々な仮説が成り立つのですが、複雑すぎる生命活動に対してこれとこれを組み合わせると最高の結果(いや、最高の結果?人間の最高の幸せの状態は?わからない。)がもたらされるといった完成された答えを出すことはまだまだ出来ません。
私としてはこの科学的作業で思い通りの能力、人格を作り出せないということが、クローン人間の問題同様に不可侵的な領域なのでは?それでよいのでは、だから平和なのではと考えてしまいます。(ある一部の能力を高めることは可能だが、偏重の危惧がついてまわる。)
結論的には大脳生理学的な思考のメカニズム理論と分類わけに合わせて心理学や統計学的な結果を科学的に検討して教育に応用することが現在できる最高の科学的学習応用なのではと考え、その分野の研究者の方々の今後に大きく期待するものです。
そう考えるとなんか情けない答えにも聞こえるでしょうが、味噌汁作りと同じ「おふくろの味」というやつではないでしょうか?一喜一憂もありながら、ただそれには大きく動揺せず、何年もの長い時間をかけて愛情たっぷりに、そして何が良いのではなくバランスよく完成されていくということでしょう。

将棋と算数

2013.02.02(Sat) | EDIT

将棋と算数感覚
私自身はへぼなりに囲碁をたしなみ、外部研究員の小鹿信男氏にご協力いただきながら算数力を高めるゲームの研究をやっているのですが、今回は質問の多かった将棋について考察してみます。トレンドとしては「ヒカルの碁」の影響も大きく囲碁を先に取り上げたかったのですが、受験生のご両親のなかでは将棋をたしなまれる方の方が多いのでしょうか?(この将棋の章は小杉守研究員の協力を得て書いています。)
「将棋」では何手先まで読むと言うような表現をしますが、この作業は仮説をたてる、それを検証すると言った流れが算数の問題を解くのと同じです。経験を含めた直感力でおおよその流れを予測します。これはむやみやたらに将棋のこまの動きをすべて検証するのではなくものではありません。
確率的にはこまの動きは以下のようになります。

  将棋の駒の効き数で言うと、例えば飛車は盤上のどこに置いても16なんですが、角は中央なら16、盤の隅では8、あとは置く場所で10だったり12だったり変化するんです。(将棋ができる方は確かめてみて下さい。)あと、成り駒とそうでない駒でも効き数は違います。
 将棋というのは最終的に相手の玉を詰ます(動けなくする)ゲームなんですが、途中で色々なテクニックを使いながら受けたり攻めたりしますが、その基本は実は単純な足し算、引き算なんです。相手が2枚で守っていたら攻める時に3枚にすれば攻めは成功します。1枚相手より戦力が多い訳ですから当然ですよね。守備が3枚なら攻めは4枚にすればいいし、守る時は反対に攻め駒の数より1枚足せばいいんです。単純に言えばそれだけなんですが、だんだん強くなってくると今度は守備駒または攻め駒で自分から見て邪魔な駒をそこからどけるために1枚捨て駒を打ったり、飛車や角を捨てて相手の駒を2枚以上取りにいったりします。いわゆる「手筋」というものを使うんですが、この手筋というのが算数で言えば解法のマニュアル的な知識にあたるようですが、同時に直観力的な感性も必要です。
 歩は前に1つしか進めませんが、歩が1枚あるかないかで勝敗が決まることが多いんです。実際に将棋を指していけばわかるんですが、歩が1枚ないから詰まないとか、歩がないから攻められないということは多いですし、平均してある130手位の中で1番歩を動かしているのです。歩は全部で18枚あって数も多い駒ですから、動かす回数が多くなるのも道理ですが。この130あまりの選択肢の中で選択は演算作業であり、トレーニングによって育った解法能力です。
 あと、将棋の初手は何通りあるか将棋ができる方は考えてみて下さい。正解は30通りです。後手も30通りの初手がありますから30×30=900通りの変化がたった2手の中に隠れているんです。実際にはその中で悪手もありますから強くなるとその中から数通りの初手にだんだん絞るようになるんですが、たった2手の中に900通りの変化が存在するなんて面白いと思いませんか。将棋について考えてみることも、また将棋をゲームを楽しむことも思考力の養成に、そして算数力の養成に繋がるということがわかりますね。

学力低下は・・日本の問題だ。

2013.02.01(Fri) | EDIT

一般的に「学力低下」の問題は基礎教育がおろそかにされているから-と昨今言わ
れている。基礎学力を身につけることは確かに大切なこと。しかしそれだけでなく、
実は上記の「分析→予想」「仮説→実証」の過程が学校、家庭、遊びなど生活全般
で大切にされてこなかったことが、子供の好奇心を奪い、受験マニュアル的学習に子供
たちを傾倒させているのではないだろうか?

基礎教育は大切だが、指導手法の問題である。行動のエネルギーは大きくは「興味のエネルギー:お父さんが疲れていても、ゴルフや釣りには早起きしていける。子どものTVゲームがそうだ。」と「必要のエネルギー:嫌な仕事でも家族を養うためには働かなくては。」
後者「必要のエネルギー」は子供たちに対しては「今これをやらないと将来困るから、」となろうが、なかなか理解しがたい。
勉強が興味のエネルギーで行える状態さえつくれば子どもは確実に伸びる。流行の百マス計算も、上手に前者のエネルギーを引き出す指導のもと行われていれば良いが、
そうでないケースの無理やりでは、百害ある。

明治に始まった教育も。例えば法律条文同様一般人には分かりにくい物となっているが
これは、権威付けの意味合いも多く、同様に学問についてもいまだ、勉強とは・・・のイメージが悪い形で残っている。
江戸時代の算術はそれなりに高度であった、だが庶民は読み書き、そろばん、が関の山
また算術家たちは、様々な流派が存在する中、他にそれを漏らさなかった。
教育は公に施すものではなく、隠し持つ特技で、生活の糧でも有ったんです。


 ★子供たちが「志」「好奇心」「挑戦心」を感じて、その上で「物事を理解する力、
> 論理的に考えるセンス」を持てていれば「学ぶこと・考えることは素晴らしい」につ
> ながっていく=学力に関してポジティブな気持ちになれるのではないだろうか?

プロフィール

科学の先生

Author:科学の先生
KIS科学研究所所長・元算数オリンピック委員・○○大学特命教授 子供数理教室主催
http://kismit.jp

スマホホームページは
http://kismit.jimdo.com/

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